トイレと、詫び状と、盃と

 はじめに

何も書くことがないので、トイレに行くたびに思うことについて書こうと思う。

うちのトイレには横になぞの塀がついており、その上に本が置けるようになっている。おそらく設置した業者は本を置かれるとは思っていなかっただろうが、とにかく私はそのように使っている。

そのスペースにはもろもろの雑多な本や漫画が積み重なっているのだが、その中でも他にもっていかずにずっとその場所に鎮座している本がある。

「眠る盃」である。

 

向田女史、そして「父の詫び状」

さて、「眠る盃」の話をする前に少しだけ過去の話をしよう。

私と、向田女史との話だ。

といっても直接に面識があるわけではなく、もっというと同じ空を眺めたことすらない。私が生まれたころ、すでに鬼籍に入っておられたからだ。

だから、私と彼女との出会いは本の上でのことだ。

小学校高学年のころ、私は「父の詫び状」」と出会った。文庫であったように思う。我が家の蔵の中にあったその一冊をふと引き抜いて読んだ。

書いてあるのは、私が知らない、これから体験することもないであろう過去の話だ。だが、どこか自分と近いものを感じた私はその本を繰り返し読んだ。たまに塾の国語の授業で取り上げられるとなんとなく我がことのように喜んだものだ。

「普通」とされる生き方、つまり母や祖母が望むように誰かと結婚して家庭を築く想像ができなかった私にとって「父の詫び状」は過去の話であり、自分の未来の話でもあった。だからこそ、惹かれ、繰り返し読んでいたのだと思う。

「眠る盃」について

「眠る盃」は大人になってから見つけ、購入した本だ。

タイトルの由来は「荒城の月」の「めぐる盃」という歌詞を「眠る盃」と間違えた、というエピソードだ。私もよくそういう間違いをするのでそのタイトルを大いに気に入った。

「眠る盃」はいくつかの掌編がまとめられているが、その中にはどうしようもない切なさや、じんわりとした温かみがある。遠く、どこか懐かしい話ばかりだ。

トイレに入った時にそれを読むのは私にとって癒しであると同時に、どこかやりきれない気持ちにさせられるものであった。これを書いた人は、もういないということを知っているからだ。その死は何の因果もない突然のものであったことも大きい。

それを思い出す時、脳裏に浮かぶのは「トットてれび」で満島ひかり演じる黒柳さんが薄暗い部屋の中で電話の受話器の前でへたりこむ姿だ。

人間はわりと簡単に、あっけなく死ぬ。

私はそれを、トイレに行くたびに思いだしている。